2014.02.26

第192回 (A) 黒田官兵衛は戦国時代のトップコンサルタント?【ディーバ哲学】

コンサルティング事業本部 コンサルティングサービス1部 シニアマネージャー 吉橋 誠司

少々話題の旬を逸しましたが、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりました。主人公は言わずと知れた戦国時代の名軍師、常勝無敗とうたわれた黒田官兵衛孝高です。主人公としてはマニア好み、戦いものは女性に敬遠されがち(?)といった評価で視聴率面ではまだまだこれからのようですが、信長、秀吉、家康、三英傑に仕えてそれぞれに高い評価を受け、歴史の分岐点となった逸話も枚挙にいとまない人物ですので、単に官兵衛の人生劇というだけでなく戦国時代後半の歴史をなぞるドラマとして今後の展開に期待したいところです。
大河ドラマのお約束通り、近頃書店をのぞくと例外なく“軍師官兵衛フェア”なるものをやっています。吉川英治、司馬遼太郎、最近では火坂雅志などの官兵衛を題材とした小説や、特集・ムック本、“官兵衛に学ぶ”系の新書、漫画などが花盛りです。そのいずれもが官兵衛を軍師として、かつ好意的に描いています。これは(後世の創作も含めて)彼の生涯が戦歴華々しくまた共感を得る逸話が多いことにあるからでしょう。

さて、その官兵衛ですが、大河ドラマのタイトルを引くまでもなくその評価は「軍師」です。軍師とは、戦において大将に従い、戦術、計略を以て敵を倒し、或いは外交で自軍の有利な状況を作り出す人です。いわば現代における軍事「コンサルタント」とも言えます。特に戦国時代は上杉氏の宇佐美定満、武田氏の山本勘助、今川氏の大原雪斎、或いは竹中半兵衛など、多くの軍師が名を馳せました。直江兼次や真田幸村を軍師と評する方もいます。官兵衛はその戦国時代後期に活躍した軍師、ということになりますが、官兵衛は果たして本当に「軍師」だったのでしょうか?

現代の歴史認識では、軍師とは後世に軍記ものなどイメージで創作された部分が大きく、その言葉自体当時は存在していなかったと考えられています。自らも武将として活動しつつ特に兵法、軍配術を会得し知略・計略に優れた成果を残した人物が、後世軍師というカテゴリにイメージ付けられた、と考えた方がよさそうです。

官兵衛も例外ではなく、播磨の国(現在の兵庫県の辺り)の、いち土豪の家臣の家に生まれながら、自らを信長に売り込み、秀吉に重用され、己の知力・知識を活かして多くの武功を立て、自らの地位と力を高めていきます。華々しい戦歴や誠実な人柄が窺える逸話が多いですが、他方宇都宮一族の謀殺など当時の武将、統治者と変わりのない行為も行ったといわれています。
数々の逸話の紹介は大河ドラマの進展に譲るとして、注目したいのは関ヶ原の戦いの際の行動です。
官兵衛は既に息子長政に家督を譲り隠居、その後剃髪もして如水円清と号していました。

天下分け目の戦いに際し如水は、息子の長政を関ヶ原東軍に参陣させ、自らは豊前にあって東西両軍を秤にかけながら冷静に旗色を見極め、関ヶ原開戦の間隙を縫って挙兵、九州の関ヶ原戦と言われる石垣原の戦いで大友軍を破り、その勢いを駆って転戦、島津を残してほぼ九州を制圧します。このとき如水の腹はどこにあったのか。諸説飛び交い、歴史家、歴史ファンの間で今も意見が分かれるところですが、私はいち歴史ファン(というより伝奇小説ファン?)として、如水に東上の意思、つまり天下取りの野心があった、と考えたいところです。大博打です。残念ながら結果は如水の予測に反して関ヶ原の戦いがたった一日で終結してしまい東上の機を得ることは叶いませんでしたが、この行動には常に天下を目指す誰かの軍師として働きながら、実は己の野心も決して捨てない、私にはそんな心胆が感じられてなりません。

さて冒頭の問いかけに戻ります。官兵衛は「軍師」だったのか?戦国期において確かに三英傑の(いわゆる)軍師としての経歴はありますが、単に誰かの下で働く戦略、戦術家、というだけではなく、その心底には常に自らが天下を目指す一個の武将としての気概、心構えがあった、と私は考えます。 言わば「経営者・お客様の視点で行動するコンサルタント」です。

私共の仕事もお客様の経営支援、いわば現代の戦術軍師です。常にお客様と同じ視点で行動する、当時の武将の価値観を現代の価値観に引用するのは少々無理があるかもしれませんが、この心構えを学び取り、日々のサービスに努めたいと思います。

皆様、興味が湧かれましたら是非大河ドラマもご覧ください。

おことわり:歴史観には諸説あります。本稿解釈は筆者独断と偏見による歴史観とご了解ください。

MAIL MAGAZINE

メールマガジン

NEWS

ニュース

SEMINAR / EVENT

セミナー / イベント

セミナー/イベント一覧を見る

お問い合わせ